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(一二九)土佐光吉

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 土佐光吉は從四位下刑部大輔土佐光茂の第二子[(養德錦顯文鈔) 或は光元の養嗣に作る (圖畫考)]始めの名は久吉、又刑部と稱した。畫所預となり、從五位下左近將監に任ぜられた。(養德錦顯文鈔、圖畫考)畫法を父に受け、後薙髮して久翌(或は休翌)と號し、【堺に移住す】堺に移住した。(鑒定便覽、續本朝畫史卷下、扶桑名工畫譜)畫格纖細を宗とし、人物花鳥を得意とした。慶長十八年五月五日行年七十五歳を以て卒去した。(地下家傳二十、鑒定便覽、名人忌辰錄)堺中之町東三丁寶樹寺にある靈位には表に圓照院一光久翌居士靈位、裏に慶長十八癸丑年五月五日土佐光吉と見えてゐる。(久翌居士位牌)主なる作品には翁三番叟二幅、天神像、秋野日月屏風、春屋贊の利休像等がある。(圖畫考)光吉菩提所の保護に心を注ぎ、寶樹寺の堂塔に修繕を加へたと云はれて居る。(養樹寺記錄)增訂古畫備考三十三には妙國寺に墓所があるとあるも、所在は明かでない。【久慾又は久翌等の異稱】鑒定便覽に慶長頃土佐家の一族久慾堺に居住し畫を業とすとあるのは、恐らく光吉を誤傳したので、久翌又は休翌から傳訛したものであらう。或は亦土佐光元の門人久欲を混同したものかも知れない。