尾和宗臨は通稱を四郞左衞門と號した。堺の富豪で、貿易の利を占め、能く財を散して施與を好んだ。【
一休宗
純に參禪】
一休宗
純に參禪し、道號を
祖溪と稱した。(
尾和宗臨畫像贊)永享年中
一休の爲めに、
大德寺内に眞珠庵を創建した。【
大徳寺諸堂の再建】應仁、文明の亂
大德寺兵燹に罹り、諸頭塔の未だ再建せられざるものが多かつた際に(龍寶山大德禪寺世譜)
一休は宗臨に謀り(
一休和尚筆
尾和四郞左衞門宛書狀)文明年中本寺を始め、其塔頭の德禪寺、大用庵、如意庵を再興し(龍寶山大德禪寺世譜)猶ほ如意庵へ田地を寄進した。(
大德寺文書)眞珠庵は、
一休が德禪及び大用、如意二庵の再興を急ぎ、先づ之に着手した爲めに、存命中復興を見るに至らなかつたが、其歿後宗臨は前約を履んで、再建に着手し、延德三年に至つて竣功を告げた。(龍寶山大德禪寺世譜)宗臨は貿易に從事した船舶の帆柱を
大德寺の棟梁とし、船板は庫裏の腰板に使用したと傳へられて居る。(寶山記談)
一休の住吉牀菜菴在住時代には宗臨數々此草庵を訪ふた。文龜元年十二月二十日歿し、眞珠菴に葬つた。(
尾和宗臨畫像贊)實傳
宗眞は偈を作り、一山を代表して其死を弔した。(實傳和尚弔
尾和宗臨偈)
第三十四圖版 尾和宗臨畫像
第三十五圖版 宗臨寄附打敷
第三十六圖版 宗臨墓表(京都市眞珠庵境内)