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(四)小出吉英

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 小出吉英は吉政の子、天正十五年生誕、文祿二年從五位下右京大夫に敍任し、慶長九年父吉英の後を襲ふて、但馬國出石城六萬石を領した。【出石より岸和田に移る】十七年大和守に改め、十八年父の卒去により、出石城を弟吉親に讓つて、和泉岸和田城に移り、和泉國大鳥、日根、但馬國養父、氣多、美含(みくみ)五郡の内五萬石を領した。(寬政重修諸家譜卷第九百二十五)【澤庵に歸依す】吉英深く澤庵宗彭に歸依し、同年二月父吉政の卒去に際し、弟吉親と共に、乞ふて佛事を修し、其贈るところの嚫金を以て澤庵南宗寺の鐘樓を建立した。吉英は又先考菩提の爲めに、大德寺山内に一院を創建せんとしたが、故あつて之を果さなかつた。(東海和尚紀年錄)【大阪兩役の功】【南宗寺の復興に力む】大阪冬夏兩役には、共に東軍に屬して戰ひ偉功を樹て、役後兵火に累せられた南宗寺の復興に當つては、元和二年二月澤庵の乞ひにより、泉山の松樹三百種株を同寺の燒跡に移植して、境内風致の復舊を圖り、喜多見忠勝等と勠力して堂塔新營の工を助けた。同寺の中興は實に吉英等に負ふところが多かつたのである。(泉州志卷之一)【出石の舊領に復す】五年岸和田より舊領に復せられ、出石城に治した。(寬政重修諸家譜卷第九百二十五)【座右の銘】寬永十九年澤庵、上中下三字の解並びに圖を作つて之を貽り、吉英は之を以て座右の銘とした。(東海和尚紀年錄)【墓所】寬文六年三月九日卒去、享年八十歳、法名を潙峰不白雪江院と號し、江戸下谷の廣德寺に葬つた。(寬政重修諸家譜卷第九百二十五)