仙石政寅始め次左衞門、後淡路守と稱した。食祿二千七百石。【茶湯の達人】茶湯を嗜んで仙樹庵德玄と號した。(茅溟刺吏鑑)【堺奉行】安永七年十二月家督を繼ぎ、天明八年九月浦賀奉行を經て寬政九年六月堺奉行に轉じた。(寬政重修諸家譜卷第三百七)【治績】政寅は奉行所前の殿馬場に訴訟人の爲め腰掛茶屋を作らしめて、公衆の利便を圖つた。(文化十年手鑑)在任中寬政十年正月、西本願寺掛所より出火、其附近を併せ燒いたが、翌十一年二月には再建工事を開始するに至つた。(堺御奉行代々記)又是歳秋材木町濱及び宿院の茶屋をそれ〴〵戎島、乳守等へ移轉せしめた。(文化十年手鑑)【墓所】同年十月五日卒去し、同八日妙國寺に葬つた。(茅溟刺吏鑑、文化十年手鑑)墓表に惠明院殿從五位下前淡路守源政寅德玄日義大居士と見える。