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(二二)駒井信義

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 駒井信義は相模守と稱した。【堺奉行】食祿二千七十五石、安政五年十一月寄合より堺奉行に轉じ、翌六年三月來任した。(堺御奉行代々記)在職中尊王攘夷論沸騰し、萬延元年櫻田事件の殘黨、高橋多一郞父子の大阪に死せるあり、物情騷然として、警戒嚴重を極めた。【志士の逮捕】時恰も其同志大貫多助の泉南熊取の中左近に投じたので、信義偵察して之を逮捕した。(聞書集)【鄕學所の擴張】是より先き、安政六年北絲屋町の鄕學所狹隘を告げたので、之を九間町に移し、小林新助を聘して教授とし、學事を奬勵した。(界府鄕學校之記、堺區學事沿革誌)【墓所】文久三年正月十三日歿し、南宗寺本源院の墓地に葬つた。墓表に本量院殿從五位下朝散大夫仁山義道大居士とある。(墓表)