日重は一如院と號した。京人某の子、六條本國寺の南泉坊に入つて出家した。【泉南三勝會】堺に日珖、日諦、日詮の三光勝會あり、偕に斷金の交を結んで互に主伴となり、天台の三大部を講習するや、笈を負ふて堺に至り、其講説を聽き大いに得るところあり、後南都に遊んで唯識、因明を學び、學成り洛に歸つて、本滿寺に瑞世した。弟子に接するの餘暇には台家の三大部を講説した。(草山集卷六)【六條談林の講師】爾來講席日に盛んとなり、六條本國寺の大衆相議し、其境内に談林を設け、求法院と呼び、請して法莚を開いた。慶長七年身延の招請を固辭し、高足孝順(日乾)をして之に代らしめた。其後も山に入らずして身延山の第二十代に配せられた。日重始め南都に在住の際、方生齋宗二に就いて、儒書及び禪錄を聽き、【清原枝賢に學ぶ】【交友】清原枝賢(雪庵)に、論語、孝經、神代卷及び職原抄等の教授を受け、又細川幽齋、里村紹巴に交り、時に相會して舊交を溫めた。平生浮華を厭ひ、紙衣、布衲を着、老に至るまで改めなかつた。元和九年閏八月六日病んで逝去した。年七十五。(草山集卷六、本化別頭佛祖統記)生涯の説法五百四十餘座、經を誦すること一千五百七十部であつたと云はれてゐる。【著述】著述に見聞愚案記廿四卷、崑玉集十卷、同撮要集、空過致悔集、法華神書(一名三十番神抄)各二卷、和語鈔十卷、立正安國論聞書一卷等がある。(三國高僧略傳)