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(九〇)湛慧信培

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 信培、字は湛慧、澄蓮社忍譽と號した。俗姓谷口氏、延寶三年十二月京都三條白河に生れた。【剃髪】元祿元年、十四歳、息菴に從ふて剃髮し、内典を學んだ。【荻生徂徠に學ぶ】十七歳江戸に遊び、靈山寺廓瑩に師事して、宗戒兩脈を相承し、深く教觀を究め、又荻生徂徠の門に學び、雲竹に就いて書法を修め、共に通達した。後京都に歸り、勅を奉じて華開院に住し、息菴の席を繼いだ。【華開院住職】これ實に元祿十二年、二十五歳の時であつた。爾來居常俗事を絶ちて硏鑽に力め、偏く古德先匠の章疏を涉獵した。四方の學徒其門に麕集し、維摩、楞嚴、倶舍論及び頌疏、唯識論及び述記、法苑表無表章、因明疏、起信論義記及び註疏、華嚴探玄記及び五教章等を講説するに當り、聽者悅服せざるものはなかつた。正德元年、江戸淺草の凉源寺に寓して倶舍論及び起信論義記を講じた。【鳳潭との論難】湛慧起信論義記を講じては鳳潭の幻虎錄を、五教章を講じては匡眞鈔を駁した。【靈空との論争】又曾て勿字の義を辨じたが、天台の靈空、勿字解一篇を著して之を駁した。卽ち亦一露濤一卷を著して之に應じた。後京都淨樂寺に倶舍論頌疏を講じ、冠註を駁した。其論的確にして頗る明快之に因て名聲嘖々、學徒の集るもの益々多かつた。享保八年、席を門弟素寂に讓つて退院し、洛西龍安寺の子院に寓居し、洛東の靈潭律師に就いて專ら戒律を究めた。洛西の槇尾、和泉の大鳥の耆宿に請益し、僧坊の軌矩説姿等の行事を暗んじた。享保十年、瓔珞羯磨に依つて自誓受具した。十一年、奈良の雲松菴に倶舍論及び唯識を講じ、七大寺及び泊瀨寺の僧侶多く之を聽講した。【長時院律法開祖】十二年息庵の遺命により、洛西長時院の廢址を求め、律寺を營んだ。十三年、光照院大舟入道女王の請を受け、宮中に梵網經を講じて菩薩戒を授け奉つた。【大寺明王院に倶舍論及び唯識論を構ず】十六年高野山學侶の請に應じ堺大寺明王院に在つて倶舍論を講じ、因て指要鈔十卷を撰述し、翌十七年には唯識論述記を講じ、又集成篇四十五卷を撰んだ。後京都長德院に梵網經法藏疏を講じ、辯斷三卷を著した。【第二次鳳潭との論難】此時に方り、鳳潭金剛槌論を著した。湛慧卽ち因陀羅手一卷を著述して之に駁擊を加へた。元文二年、京都智積院、大和長谷寺の大衆の爲めに唯識論述記を講じ同三年には京都十念寺に於て倶舍論を、四年興正菩薩叡尊の四百五十囘忌に當り、法苑表無表章を講じ、報恩吼八卷を撰述した。五年、雜集論述記を上梓し、又貫練編二十八卷を撰んだ。寬保元年、大阪了幸寺主の請に應じて、雜集論述記を講じ、爾後累ねて斯論を講じ、次いで復、五教章、表無表章を講述した。黑谷の鏡譽、知恩寺の眞徹等、皆道化に服した。長時院の東隣は昔法然が雜華の法門を傳受したところなるを憶ひ、華嚴の弘通の宗祖の意に協ふ所以を知り、法門の宣揚に努めた。既にして瑞泉寺主の爲に探玄記を講述し、梵網抄三卷を撰述した。時に華開院の十夜法要久しく廢絶したるを聞き、之を惜み、法門を開いて三部假名抄を講じ、或は日課念佛を受け、或は菩薩戒を受くるもの、數百人に達した。是れ實に寬保二年のことであつた。是歳又撰玄記を上梓したが、十一月には病に罹つて、四年正月長時院に歸り、二月後事を弟子法澤に託し、十九日示寂した。時に世壽七十三、法臘二十二であつた。(長時院律法開祖湛慧和上行狀)