【
專稱寺八世】
惠然は堺
專稱寺(熊野町東五丁)第七世義圓秀意の嫡子で、義融と稱した。(
專稱寺法名記)元祿六年
專稱寺に生れ、第八世となり、海東と號し、華藏庵と稱した。二十一歳京都に遊學し、
西福寺の慧空に宗乘を究め、兼て台學を硏鑽した。【大谷
本願寺講師】三十七歳、光性宗主の命によつて、第二世の講師に任ぜられ、力を學徒の誘掖に致した。【高倉學寮】これより學生の上京するもの頓に增加し、從來の寮舍枳殼邸の一隅では狹隘で、授講に不便尠なからざるにより、本寮を高倉魚棚に移し、規模を擴張し、黌舍を新築し、清規を改正し、殆ど舊時の面目を一新するに至つた。(
惠然講師略傳、大谷派本黌沿革略)卽ち本山に請うて新學寮を興さんとし、寶曆四年五月起工、翌五年四月に至つて竣工し、是より高倉學寮の名稱が起こつた。新講堂に於て夏期安居の講莚を開かれた際には、講師
惠然は往生論註を講じ、嗣講慧林は和讚を講じた。(大谷派本黌沿革略)爾後累年心經略疏、三帖和讚、群疑論、往生要集、倶舍論頌疏及び選擇集等を講じた。(學寮講義年鑑)學寮の清規を始め、【宗學振の興】百般の事業制度多くは其手になり宗學大に振興した。在職三十七年
本願寺宗學史上不朽の功蹟をとゞめ、晚年猶請ふて才學の者を撰び、大藏經を校正せしめた。(大谷派本黌沿革略)寶曆十四年正月十五日京都に於て示寂、春秋七十二。
香嚴院と諡した。(華藏庵
惠然師之碑銘)【墓碑】尊稱寺經藏中に其墓碑がある。【門下】門下に圓環、慧林等の逸材を出した。
第五十二圖版 惠然書狀
【著述】著書頗る多く無量壽經義記六册、同講義四册、阿彌陀經略讚二册、淨土往生論大意一册、論註顯深義記五册、安樂集勸信義一册、安樂集講錄六册、四帖疏顯彰記十册、往生要集略讚四册、選擇集講錄六册、一枚起請文仰信義一册、正信偈會鈔句義三册、文類聚鈔講讚五册、入出二門偈大意一册、三帖和讚聞信抄十一册、改悔文信受本願義(初題欣淨妙術)一册、學軌十則一册、學佛正法眼一册、第十八願十條一册、起信論眞心義一册、起信論對文述義一册、釋淨土群疑論撮要義四册、安樂集講讚七册、觀經三心釋錄二册、略文類發硏五册、華藏考記二册、
十萬億土衆説決擇記一册、二門偈大意自喩錄一册、三帖和讚講義十一册、御文略解五册、安樂集聞記二册、安心決定鈔讚仰一册、百千倶胝佛土義略一册、正信偈刊仰錄三册、同聞記一册、末燈鈔芳盟私記二册、愚禿鈔質記三册、一枚起請文仰信義略一册、
蓮如上人鵙之草莖等がある。(大谷派先輩著述目錄)