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(一一四)布屋次兵衞

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 布屋次兵衞名は遒延、田中氏を稱した。(海融宗印居士墓碑銘)【戎之町の人】堺戎之町の人で家世々富豪を以て聞こえた。【堺港灣改修の企劃】次兵衞頗る大志を抱き、寶永元年大和川開鑿工事竣成後流出するところの土砂、河口に沈澱堆積し、港灣次第に埋沒せんとするを觀、深く之を憂へ、改修を志し、(石堤願書)享保十二年五月堺奉行所に願書を提出し、次いで江戸に出訴し、漸く願意聽許せらるゝところとなり、而も起工を見るに至らずして、其年三十一歳を以て病歿した。林昌寺(柳之町東三丁)に葬り、法號を海融宗印居士と稱した。嗣子なきを以て、姻戚五良三郞を迎へ、其後を嗣がしめたが、幼弱にして事をなすに足らず、石堤は漸く次兵衞の外舅谷善右衞門の出資と努力とによつて完成された。(谷氏德惠傳)【贈位】大正八年十一月十五日、其功を以て從五位を追贈せられた。

第五十三圖版 布屋次兵衞墓碑拓本