布屋次兵衞名は遒延、
田中氏を稱した。(海融宗印居士墓碑銘)【戎之町の人】堺戎之町の人で家世々富豪を以て聞こえた。【
堺港灣改修の企劃】次兵衞頗る大志を抱き、寶永元年大和川開鑿工事竣成後流出するところの土砂、河口に沈澱堆積し、港灣次第に埋沒せんとするを觀、深く之を憂へ、改修を志し、(石堤願書)享保十二年五月
堺奉行所に願書を提出し、次いで江戸に出訴し、漸く願意聽許せらるゝところとなり、而も起工を見るに至らずして、其年三十一歳を以て病歿した。
林昌寺(柳之町東三丁)に葬り、法號を海融宗印居士と稱した。嗣子なきを以て、姻戚五良三郞を迎へ、其後を嗣がしめたが、幼弱にして事をなすに足らず、石堤は漸く次兵衞の外舅
谷善右衞門の出資と努力とによつて完成された。(谷氏德惠傳)【贈位】大正八年十一月十五日、其功を以て從五位を追贈せられた。
第五十三圖版 布屋次兵衞墓碑拓本