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(一六四)久 吉左衞門

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 【堺の名族家系】久吉左衞門は堺の名族で、世々魚問屋を業とした。祖先は源融より出で、渡邊を氏とし、後久と改めた。久貞に至り、始めて堺に來り往した。其後裔遵(法名宗俊)に至り、始めて吉左衞門と稱し、爾後其子孫相繼いで家名とした。【征韓役の嚮導】豐臣秀吉の征韓に方り、其船隊堺に於て艤裝を終り、出發に際し吉左衞門、肥前まで海路の案内をなし、功勞により、黑鳥毛の槍を與へられた。因つて所有船の徽章とした。【堺船】是より堺の船舶には、鳥毛を樹つる慣習をなし、世人鳥毛の船を見ては、皆之を堺船と稱するやうになつた。大阪冬、夏ノ陣には德川家康其家臣にして、吉左衞門と親近せる小田助四郞を使して密旨を傳へ、重ねて大久保彦左衞門を遣はして、内意を傳へしめた。【大阪役に家康久邸に入る】當時家康久邸に入り、滯座三日、吉左衞門は身命を堵して、命に從ふところがあつた。【當時の遺品】家康家絞打つたる金扇三本、同紋附時服、胴服等を與へた。寬文八年正月十日亭年六十三歳を以て歿した。法諱を宗俊といふ。(久家系圖)【久の森】今少林寺町西四丁に綠樹蔚葱たる一境域があり、俗に久の森或は久の辨天と稱し、稻荷社がある。地は久家の濱屋敷にて、神社は祖先より邸内に奉祀した鎭守である。每年十一月晦日に祭祀を行ひ、之をつめた貝蛸岡祭といひ傳へた。(久の森由來)【近衞信尋の入來】降つて寬文の頃、春三月近衞信尋來つて、此濱屋敷の鹽風呂に浴し、釣魚の興を遣つた。(久家系圖)