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(一六六)谷 安殷

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 【正安の孫】谷安殷は通稱を長右衞門と稱し、正安の孫、父は勘左衞門安永(貞享二年六月十六日歿、享年四十九、妻は法號法室榮正尼)妻は具足屋祐玄の女である。(谷家系圖)父祖の業を繼いで頗る家産を積んだ。【平間長雅に學ぶ】安殷又連歌に志し、後平間長雅に和歌を修め、奧旨に達し、神國和歌師資相傳正流血脈道統之譜一卷を授與せられた。(神國和歌正流血脈之卷)【同門の名流】同門の士有賀長伯、羽室正義等と、深く之に交はつた。(中正齋追悼詩文)【白石に幣制改革の意見書を送る】正德中幕府幣制を改革せんとし論議せらるゝに際し、安殷亦意見書を、京都の呉服師鷲津見源太郞を通じて新井白石に送つた。白石之を見るに、其議は頗る當時に行ひ易き法で、且當業者のことゝて良案もあらんかとて該意見書を間部詮房に示したが、詮房之を見て大に悅び、安殷を江戸に招いて、其意見を聽取した。斯くして其説を傾聽するもの多く、彼此考究の結果、彌々安殷の建議を採用することに定め、翌四年五月金銀制復古の發令となつた。之は白石の草するところで、安殷の意見に基くものである。【今橋谷家の引替所】斯くして金銀貨の改鑄せらるゝに及び、幕府は三都に引替所を置き、大阪は正德四年十月から、今橋二丁目の谷長右衞門方で、引替を行ふことゝなつた。(折焚く柴の記)同所は、谷家の出張所であつたと思はれる。是より白石は安殷と親しく相交るに至つた。(白石先生紳書)【家隆卿の碑を建つ】又大阪夕陽ヶ丘家隆卿の墳上に現存する巨碑は、遺蹟の湮滅を惜んで、享保六年安殷、安井大僧正道恕に撰文を請ひ、之を鐫刻したもので、碑の側面に安殷の名を示して居る。安殷同年八月江戸にあつて病み、遂に九月十八日卒去した。(中正齋盛翁紹殷居士墓誌銘幷序)谷家系圖には享保七年九月十七日とある。享年五十三歳、中正齋盛翁紹殷居士と稱した。(谷家系圖)【墓所】【長伯の輓歌】火化して遺骨を堺祥雲寺に葬り、(祥雲寺略記)同好士追悼の詩歌を贈るものが多きが中に、有賀長伯は「忘れてはさなからこともかはすまてなき世に殘る人の面影」の輓歌を贈つて風貌を偲んだ。(中正齋追悼詩文)【白石贊畫像】同寺には安殷の畫像二幅あり、一には白石の贊、他には大心義統の贊がある。(安段畫像贊)
 【子孫】かゝる名家も後終に斷絶し、末孫善次郞(法名眞源紹性)寬政年中病死し、嗣子無きを以て、祥雲寺の住僧等家名相續を圖つて成らず、祖先傳來の鎗、長刀其他重要書類は之を祥雲寺に預り、家財は善次郞の妻(法號圓應妙機)の生家油屋德次郞方へ引取つて、妙機の養老の資とし、妙機の歿後は、兩靈の祠堂料として祥雲寺に寄進し、且石牌二基を建てた。(祥雲寺略記)