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(一九一)高志羪浩

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 高志羪浩名は利甫穆齋と號した。(太田本沙界人名錄)高志利貞(芝巖)の弟である。(全堺詳志序)【伊東東涯に學ぶ】【仁齋の學説に反對す】少壯京に上つて伊東東涯に學び、後宋儒の説を奉じて仁齋の學説を排擊し、遂に書を著して孔孟程の學脈を述べ、時世の變遷を説いた。之卽ち時學鍼焫である。而も羪浩界府に蟄伏して名聞を求めず、學殖を知るもの鮮なかつたので、門人、本城嘉曾等相計つて延享四年之を版行して界府に隱君子の在ることを知らしめた。(時學鍼焫敍)【全堺詳志編述】又嚮に衣笠一閑の著はした堺鑑は、其記事尚長鞭の馬腹に及ばざるの感あるを見、兄芝巖足らざるを補ひ、全堺詳志を編述した。(全堺詳志敍)養浩更らに繁を芟り雜を除き、別に評論を加へ、編末に各部門の總論を擧げて面目を一新した。これ卽ち全堺詳志である。本書は未刊のまゝ寶曆七年門人萬代文軌の序文を載せて傳はつて居る。(全堺詳志敍)【著書】其他著書として時學鍼焫二册の外に印變三册(大坂名家著述目錄)泉界妙國寺鐵蕉記一册(寬保三年刊)攝播擔簦艸一册(寫本)文章九命(校)一册等がある。歿年、享壽は詳かでない。墓碑は近年まで、南旅籠町西一丁宗善寺にあつたが、今は其所在明らかでない。

第六十四圖版 時學鍼焫