津田呉一諱は基修、棕亭と號し、薙髮して宗壽と稱した(墓誌、日間瑣事備忘)家世々商賈であつたが、醫に變じて交を文雅の士に結んだ。【堺の儒醫旭莊に學ぶ】【逍遙吟社の牛耳を執る】天保七年廣瀨旭莊來堺に際し、先んじて入門し、やがて八年旭莊を主盟として逍遙吟社を結び、牛耳を執つた。而も家道轗軻、加ふるに遊蕩に耽り、家産殆んど蕩盡せんとし、旭莊も亦屢々之を警しめた。(日間瑣事備忘)安政中貨殖して頓に萬金を得、漸く家産を恢復した。【容貌】彼は痘痕面に滿ち、大さ錢貨の如く瞻視非常、譎詐多策、人之を松永久秀に比した。(日間瑣事備忘)【墓所】安政四年八月九日享年四十七歳を以て歿し、南宗寺の兆域に葬つた。法號を珍庵一來宗緣居士といふ。(墓誌)