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(二二四)岸 紹易

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 【堺奉行所附與力】【武術に達す】岸紹易豐春、一九郞と稱し、問秦庵又は一樹庵と號した。世々堺奉行所の與力となり、大坪流の馬術、中和流の炮術等頗る武技に通じた。【茶道を島村紹億に學ぶ】亦茶湯を嗜み、明和四年四十餘歳致仕して(事實文編四十三茶翁紹易居士墓表)嗣子一九郞に職を嗣がしめ、紹易は職を辭するや藪内流の茶宗島村紹億に從游した。(茶人大系圖、茶家好古集覽、茶人系傳全集)【問秦庵襲稱】是より先き堺の醫人竹田楚竹も亦茶湯を極め、嘗て問秦庵を作つたが、老年に及んで悉く之を紹易に讓つた。因て紹易は問秦庵の號を嗣ぎ、鄕關を辭して京都、江戸等に茶友を求めて更に其技を習ふこと多年、これより先き永祿年中野本道玄京都四條に居り、一樹菴と號して茶道の名手であつたが、十五代忠勝に至つて統絶え、門人金地院僧錄司滄溟深く之を憂ひ、紹易が野本氏と姻戚たる關係もあることゝて、推擧して其傳統を繼承せしめた。【一樹菴の傳統を繼ぐ】此より紹易は一樹菴と號し、野本家に傳へた茶儀の三代祕事を得て發明する所多く、名聲高く、安永五年正月東叡山寬永寺の門主將軍家治を饗應の際には、茶席の陳設、點茶、割烹等盡く之を按配した。【法橋に敍す】在京の際、妙法院宮も亦紹易に從つて茶道を學ばれ、寬政十年四月奏請によつて法橋に敍せられ時人深く之を榮とした。翌十一年三月茗莚にて發病、二十八日示寂した。【墓所】世壽七十一、江戸城北小梅村に葬つた。(事實文編四十三(茶翁紹易居士墓表))【眞宗寺の墓表】堺市神明町東二丁眞宗寺内の墓地に墓表がある。題して問秦庵法橋豐春居士之墓といふ。眞宗寺は同家代々の兆域のある所である。