岡田爲恭諱は永恭、幼名を晋三といひ、南山隱士、山蔭、吉祥子、心蓮等の別號がある。【京都の人】文政六年九月京都に生れた。狩野永泰其同の子、影山洞玉の孫に當る。母は俳人北川梅價の娘織乃、爲恭幼少の頃、家頗る貧困であつたが、資性學を好み、獨習倦む所を知らず、夙に好古の癖があつた。【古畫の模寫に努む】始め父に從つて狩野派を學び、既にして大和繪に志し、常に高山寺、壬生寺等に出入して專ら古畫の模寫に力めた。【土佐派の中興】斯して二十五、六歳前後には知恩院の法然上人行狀繪卷四十八卷を臨擧して技能大に進み、遂に田中納言、宇喜多一蕙と共に土佐繪中興の三名手と稱せらるゝに至つた。【各所に流寓す】然も當時幕末に際し、時局紛糾輦轂の下志士の橫行甚だしく、其有識故實の調査古畫の模寫等の爲め屢々三條公、所司代酒井
若狹守の邸に出入せるを過激派浪士に忌まれ、文久二年七月頃には室町の居宅を襲擊せられて西加茂に遁れ、次いで親交ある願海阿闍梨を便つて紀州粉河寺の御池坊に遁れた。【堺に匿る】然るに三年五月願海は御池坊を退隱することゝなつた爲め、爲恭の隱宅を粉河寺の末寺天福寺の住僧惠穩に計り、其兼住せる堺の
光澤寺(現新在家町東四丁)と關係の深い湊の
安樂院へ匿れしむることゝし、後間もなく大德に移寓した。大德は本名
辻本德兵衞と稱し、今市町の西卽ち現在の
宿院町西二丁(四十九番屋敷、九番地)に肥料、米問屋を業とし、商號を大和屋、通稱を大德と呼ばれ、
茶湯、能樂、書畫等を好み、頗る多趣昧の人であつた。後間もなく爲恭は大德の親戚
間中惣兵衞(當主は篤治郞、現市之町西一丁二番地堺警察署の南隣に其家があつた)の宅に潜匿し、同じ親族の間中(竹井彦四郞氏)などは隱家へ食事を運んだものである。【別號】爲恭の別號南山隱士、山蔭、吉祥子、心蓮等は粉河、堺潜匿時代頃のものと思はれる。【堺より永久寺に遁る】斯の如くして漸く浪士の追跡を遁れ、既にして其妻綾衣を堺に招くに及び、浪士の探知する所となり、爲恭更らに大和丹波市の内山なる永久寺蓮華院に遁れた。【浪士に刺さる】然も其後の探索極めて嚴しく、大德遂に浪士に居所を告げ永久寺より誘引を強要せられ、爲恭舊知の常磐屋主人及び仲仕頭與助を從へて寺に入り、賺すに危害の既に寸前に逼るを告げ、轎を與へて西行十數町、丹波市南端の野道に於て、待受けた浪士の爲めに刺殺された。時に元治元年五月五日爲恭享年四十二歳であつた。刺殺者は長州の浪士大樂源太郞であるといはれて居る。其夜大和の老農として知られた中村直藏丹波市町勾田善福寺境外墓地に遺骸を葬つた。【墓碑】大正十一年九月奈良市竹林高行、仙田寅松、丹波市萩原巖雄氏等の盡力によつて落命の地に一基の碑が建設せられた。題して
岡田爲恭墓といふ(冷泉爲恭)當市湊町
淨光寺所藏和宮降嫁訣別之圖、裏面雪月花の屛風片雙は大德潜匿中其女某の婚嫁に際し、描いて餞別の爲めに贈つたものであるが、其後女某の歿するに方り
淨光寺に寄進したもので、用筆謹嚴、設色佳麗精緻を極め古土佐の壘を摩さんとする爲恭最後の傑作である。(
淨光寺調査書)
第七十一圖版 岡田爲恭筆屏風繪(和宮御降下之圖)