【容姿】【性向】陶齋音吐沈靜、容貌溫雅武人の氣習あり、常に結髮して其俗は道士の如く、酒を嗜んで豪宕不羈、敢て人に下らなかつた。片山北海、葛子琴等を遇すること恰も小兒の如く、大阪在住中奉行代官には同格の禮を以て相對した。(續近世叢語卷之八、師友志)【書道】陶齋壯年竺庵の筆法を傳へ、更に王羲之、趙子昻の古帖を撫して遂に一家を成した。楷行篆隸を兼ね能くして甚だ氣韻があり、森田士德は彼の書を趙承旨、祝允明と驪を並べ、文徵明、董其昌の如きは、後に瞠若たるものであると評した。(續近世叢語卷之五)【門人】【蒹葭堂記を作る】在阪中の門人には十時梅崖、賴春水、森田士德、木村蒹葭堂等最も聞こえ、(師反志)蒹葭堂は明和六年陶齋に請ふて、蒹葭堂記を得てゐる。(蒹葭堂小傳)陶齋醉はざれば書かず、興到れば欣然として揮洒し、墨痕淋璃雅趣言ふべからざるものがあつた。又畫を作り四君子を得意としたが、醉後の作畫は殊に潑墨の妙を示した。(在津紀事上)又鐵筆に工みであつたが、然も俗姓を刻するを好まず、平生多くは秦漢の人物の姓名を刻して自ら喜んだ。【印譜】陶齋印譜卽ちこれである。【鎌倉に遊ぶ】陶齋嘗て鎌倉に遊び、圓覺寺の誠拙に參し、誠拙は陶齋の書訣を受け、互に師弟の關係を結び、遂に同寺に滯留すること三年に及んだ。(近古藝苑叢談)
第七十二圖版 趙陶齋篆刻印章
第七十三圖版 趙陶齋筆蹟
【堺に來り櫛屋町濱に寓居す】【枸杞園】明和七年陶齋五十八歳、堺の益田次兵衞櫛屋町濱の別墅に修築を加へて之を迎へ、陶齋はこゝに寓居して、翰墨を樂み以て老を養ひ、園に枸杞を植ゑて枸杞園と號した。(息心筆記、息心漫筆)【陶齋病む】陶齋安永七年と同九年の二囘石榴瘡を癒さんが爲に但馬の城崎に浴した。天明二年四月七十歳に達し、老萎未だ全く癒えなかつたが、園中五間十間の散策には、さまで苦痛ではなく、之に反して眼力の精は壯時に異ならず、燈下眼鏡なくして粟粒大の文字をも視得る程であつた。【古稀の壽宴】此年の春諸子相謀つて、古稀の壽を祝した。(息心日記)蒹葭堂は席に列して萬事の周旋をした。(蒹葭堂小傅)
【逸話】陶齋の逸話多きが中に春水嘗て陶齋に從つて高雄觀楓の際、枚方の舟中にて惡少年を懲した話、(在津紀事上)又彦根侯屛風を書せしめ金若干を貽らるゝに及び怒つて屛風を破つた話、(屠赤瑣瑣集)又陶齋曾て住吉神社石燈籠の筆蹟住吉太宮拜前の七字を見て、本邦斯くの如き能書あるかと、歎稱したといふ話、(浪華詩話)などは特に知られてゐる。【自記】陶齋在堺十四年、七十一歳の冬卽ち天明三年十一月三十日の夜、自記を作つて歿後墓蔭に刻すべきを以てした。一女あり、晚年の子て、是歳漸く七歳であつた。爲めに某氏の子を養うて後を嗣がしめた。(陶齋自誌誌心居士墓息)【堺に於ける交友及び門生】堺の交友中主なる者に半井宗珠、宗卜あり、(陶齋書翰)門人に河合梧栖、益田睢軒、田中敬亭、(在津紀事上)里見東霞等があつた。(沙界人名錄)【增山雪齋後事を處理す】伊勢の長島侯增山雪齋、深く陶齋を欽慕し、天明六年四月二十日七十四歳彼の堺に歿するに及び、江戸に在りて訃音を聞き、痛惜措く能はず、藩儒で翁の門人たる十時梅涯を遣はして、後事を處理せしめ、門人等陶齋の墓を、南宗寺内本源院に建つるに及び、自ら陶齋の自記を淨寫して之を石に勒せしめた。(息心居士墓誌)印譜に清閒餘興(寬延元年序)擊壞餘遊(寶曆十年序)趙氏印譜(明治五年序)等墨帖に愛蓮説、蒹葭堂記、百家姓、蒙求標題等、隨筆に陶齋先生隨筆(文化七年跋)があり、隨問筆記等未刊の隨筆猶多く殘されてゐる。