【海部屋甚右衞門】中村家久は通稱甚右衞門、道號を宗有と稱した。(本室宗有居士墓誌)【家系】父權右衞門一數は阿波三好氏の後裔で、同國海部郡出身の故を以て屋號を海部屋と稱した。一數堺に移住し、海外に通商をして産を積み、寬永元年八月二十一日病歿した。法號を夷竹道伯居士といふ。(夷竹道伯居士墓誌)兒孫各商業に從事し、富豪を以て世に鳴り、支族亦繁榮した。(惣年寄由緖書、元祿二年堺大繪圖)【漏月菴の額】家久曾て大鑑禪師清拙の墨蹟漏月菴の額字を所藏した。大鑑は元人で、海を渡つて來朝し、曆應二年正月京都建仁寺の禪居菴で入寂した高僧であるが、此墨蹟は臨終の日に小笠原貞宗の爲めに書いた絶筆で、漏月菴の三大字を橫書したものである。其後足利義政銀閣東求堂の茶室の扁額とし、後小笠原家に復歸し、書幅として保存せられたが、更らに又家久の手に歸したものである。享保十年十月三日家久の五十囘忌に當り、其孫宗雪南宗寺に寄進した。(漏月菴墨蹟内外箱蓋裏書、漏月菴墨蹟添狀)【南宗寺の山門を建立す】而して亦、清巖宗渭南宗寺經營の際、家久之を援けて甘露門を建て、正保四年六月竣工した。(南宗寺山門棟札、本室宗有居士墓誌)斯して家久は南宗寺の有力なる外護者であつたが、延寶四年十月三日享年八十二歳を以て歿し、同寺に葬つた。墓誌は元祿三年十月三日大心義統の撰文になつた。(本室宗有居士墓誌)