ビューア該当ページ

(四九)橋本桂園

490 ~ 491 / 897ページ
 橋本桂園諱は重賢、字は子賢、桂樹を其庭園に植ゑ、因つて桂園と號した。摘芳、六有摘軒、茅海漁夫等の別號がある。通稱清藏、父諱は清門、母は松本氏、【堺に生る】文化八年九月堺に生れた。兄弟四人中の長である。家世々鍛冶を業とし、桂園に至つて益々其技に力め、【刀匠】鍛冶するところの刀劒は、實に金甲をも割くべき精巧なもので、良冶の名擧り、家聲大に興こつた。(桂園墓誌)業餘丹青を嗜み、【繪畫を岡田半江に學ぶ】岡田半江に師事して山水を善くし、其衣鉢を傳へ一種の風韻があつた。故に京阪に至るまで畫名を知られた。(桂園墓誌)【交友】性客を愛し、畫家文人はもとより、搢紳太夫に至るまで、來堺のものは必ず之を訪ふた。就中、貫名海屋、廣瀨旭莊、高久靄崕、奧野小山等とは頗る親交があつた。(日間瑣事備忘)年五十有餘、業を其男佑賢に讓つて退隱し、優々自適の境涯に入つた。(桂園墓誌)詩は本領ではなかつたが、氣韻高尚又誦すべきものがあつた。(桂園遺詩)【德望】桂園人に接するに和氣其面に溢れ、常に邊幅を飾らず、内德を脩め、世人或は之を稽叔夜に比したといふ。(桂園遺詩序)年六十八病に罹り、揮毫意の如くならず、專ら療養に努めた。明治十三年一月年七十に及んで病勢募るや詩を賦し、口授して之を筆寫せしめ、志を述べ、同月十八日遂に歿去した。【墓所】遺命により南宗寺本源院に葬つた。(桂園墓誌)【遺稿】歿後親族松尾子深(號香草)遺稿を蒐めて之を版行した。これ卽ち桂園遺詩である。(桂園遺詩

第八十六圖版 橋本桂園畫像