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(五四)青木秀平

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 青木秀平初名は久兵衞、後秀平と改めた。【大阪の人】【瀧山氏】文政三年大阪瀧山氏に生れた。【人と爲り】人と爲り、度量宏大、放膽細心、壯年來堺して姻戚青木家に倚り、唐物問屋田中屋庄兵衞方に取引を見習ひ、後獨立して田中屋久兵衞と稱し、車之町山之口に邸宅を構へた。(掘井久吉氏談話)【紀州藩用達】安政年間紀州藩の用達として扶持せられ、國産木炭賣捌方を支配し、猶ほ場合により役人代たるの權能をも與へられた。【人參、寒天貿易】文久二年十二月幕府領會津南山所産和種人參の貿易方を委託され、且紀州産寒天輸出の衝に當つた。(堀井文書)後甲斐町東四丁に徙り、醤油釀造業を營み、兼ねて貿易に從事した。殊に絲寒天は燕巢の代用品として支那商人の注目を惹き多量の取引があり、加之當時藥種價額暴騰して忽ち巨富を累ねた。【浪士の脅迫】然るに幕末に際して浪士橫行、殊に貿易商人たる久兵衞を忌むこと甚だしく、屢々其邸を襲ひ、首級を獲んとし、或は放火の貼紙をして威嚇した。久兵衞四隣の困惑を察し、貿易を廢する旨を告げ、更に市之町東三丁に移り、茶園を拓き、單に製茶のみを輸出した。(堀井久吉氏談話)慶應元年蝦夷地産物會所元仕入方に加はり、【薩摩藩用達】明治元年六月薩摩藩用達を命ぜられ、五人口の扶持を受けた。此時名を秀平と改めた。十月同藩堺邸名代となり廩米二口を給せられ、戎嶋紡績所建設並びに同機械据付工事を董督して頗る功績があつた。【堺紡績所建設】同所は堺紡績所と稱して明治三年開業した。(堀井文書、堺縣史稿、堺大觀)次いで同所の勸農寮所管となるに及び、【堺製絲場用達】五年更に勸農寮堺町製絲場用達を命ぜられた。(堀井文書)久兵衞亦茶湯を愛好し、湊の陶工をして茶器を作らせて之を長崎に送り、同所に於て模樣を描き、釉藥を施さしめ、再び之を堺に移送せしめた。【堺阿蘭陀】時人之を堺阿蘭陀と稱して愛好した。明治十六年八月二十一日享年六十四歳を以て歿し、【墓所】南宗寺の塋域に葬つた。法號を釋了得といふ。碑面青木秀平之墓は、知友富岡鐵齋の筆になつてゐる。(堀井久吉氏談話)

第八十七圖版 薩摩藩免狀