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(三)長泉寺

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 長泉寺天龍山玉光院と號し、【位置】新在家町東四丁字寺町にあり、淨土宗京都知恩寺末で、寺格准別格寺に列してゐる。【開基】文龜元年衆德恩冏の開創に係り、悲田院北十萬と開祖同じき爲、【別號】南十萬と通稱されてゐる。(長泉寺緣起)【本尊の來由】本尊阿彌陀如來は傳毘首羯磨作赤栴檀木三三寸の立像で、永觀二年七月九日僧奝然宋より歸朝の際、將來した佛像の一で、博多海濱の漁夫等結緣の爲め此處に一宇を造立して安置し、之を毘首羯磨堂と稱したと傳へてゐる。博多の出身第十世然蓮社宛譽之を當所に遷したのである。(本尊阿彌陀如來緣起)【舊僧房】寶永元年の記錄には知足院、清香菴の二塔頭の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)現在の本堂、鐘樓及び山門は總て欅材を以て成り、竹中作右衞門の建立で、本堂は元文五年九月、鐘樓は寶永三年十月の上棟に係る。(各棟札)其他庫裏、座敷、土藏、地藏堂等を具へ、境内七百六坪。(社寺明細帳)【國寶閻魔王圖】什寶陸信忠筆絹本着色閻魔王圖一幅は明治四十三年四月國寶に指定せられた。右繪像は祐故信者之を當寺第十世然蓮社宛譽に讓り、承應三年八月十五日檀越奈良屋心譽慶安の子慶嚴之を補裝したものである。(焰魔天畫像裏書)又宗祖圓光大師自畫自贊像一幅は、法然讚岐子松庄生福寺に於て協士を作り加へ、自ら勢至菩薩を像とり、自像を畫き、勢至の化身と稱し、贊文を記したものである。【讚岐置文の眞影】之を讚州置文の眞影と號し、至寶としてゐる。(元祖上人眞影緣起、圓光大師行狀畫圖翼贊卷三十五)【開山の遺物】其他傳惠心僧都筆彌陀三尊一幅、巨勢隆賢筆釋迦と十大弟子一幅、同涅槃像一幅、筆者不詳觀經曼荼羅一幅、圓光大師舍利塔一基、傳熊谷蓮生坊所持の鉦鼓、開山衆德恩冏着用の袈裟等がある。