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(一四)養壽寺

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 養壽寺宗圓山と號し、【位置】甲斐町東四丁字寺町にあり日蓮宗久遠寺末で、寺格平僧跡。永祿十年九月今井秀光の創立と傳へてゐるが明瞭でない。(社寺明細帳)【開山】寬永十三年卽明院日相開山、(日蓮宗本末一派寺院明細帳)【開基】開基は今井宗圓である。(養壽寺今井家系圖)宗圓は當寺の惣屋敷、客殿、大門、塀壁、什器等悉く之を建立寄進して一門の菩提に資した。(養壽寺永代法式)蓋し永祿十九年今井秀光の建築した現養壽寺の建築が、後年宗圓の所有に歸し其屋敷、家屋全部を擧げて寺院として寄進したのが卽ち寬永十三年であつて、宗圓は之を養壽寺と號して一族日相をして開山たらしめたものであらう。十六年八月宗圓は開山日相、宗圓の養子卽ち兄宗意の二男で日相の兄なる今井兼成と議つて、【永代法式】永代法式を制定した。卽ち今井一門たる者は永代當寺の外護者となり、開山日相は身延山久遠日深の直弟たるにより、同寺を本寺とし、看坊は一門中の出家又は其弟子各協議を遂げ、才幹あるものを以てすること、縱令入寺後と雖も、什物を沽却するが如きものは速に之を放逐すること、和曲を以て住持を定むべからざること、宗薰の石塔並に一門の碑銘を書改めざること等詳細なる規約を制定した。(養壽寺今井家系圖、宗圓山養壽寺永代法式)開基當時屋敷の稱呼は、堺南庄谷口寺町といひ、南東角東は本教寺、西は寺町街道、北は谷口筋限西南の屋敷で、【寺觀】北南三十間、西東十六間、坪數三百二十坪である。客殿庫裏(北南元間半、西東六間半)一棟、茶間(西東二間、北南一間半)幷玄間(西東二間半、北南一間)二階門幷伴部屋(北南三間半、西東二間)一棟、西方長屋(北南四間西東二間)北方長屋(西東十六間、南北二間、此内二間口借屋合七間分あり、但西端角面二間、入三間半、東南面二間、入二間半)がある。【客殿及び茶室の襖】客殿は東面に金沙金箔金泥等を以て描ける、吉野千本櫻裏見景の襖及び張壁の八疊間並に上段間三間西面窓及び床付で、金泥引西湖繪の襖並に張壁床付六疊の茶室がある。筆致流麗纖細に過ぐるの感はあるが、着色畫風德川初期の好尚を想はしめるものがある。又記錄には俵屋宗雪筆と記し、落款には伊年とある一枚板杉戸二枚の表裏に畫ける竹に虎、鹿に紅葉の繪畫がある。(宗圓山養壽寺一式常住之覺)【庭園】猶千利休作で、今井宗久遺愛龜形の庭と傳へらるゝ小園が殘されてゐる。【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛、妙見大士、毘沙門天、鬼子母善神、日蓮で、【堂宇】本堂兼庫裏、長屋門の外に鎭守堂あり、境内二百十五坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に今井宗薰畫像一幅、今井平左衞門畫像一幅、今井家系圖等がある。【墓碑】墓地に宗薰の碑あり、五輪塔で天外宗薰、寶永四年四月十一日と刻してゐる。其外今井家一族の墓碑十數基がある。

第百一圖版 養壽寺永代格式帳

 
 

第百二圖版 養壽寺襖繪(一部)