【開創】高渚寺は僧行基の開創である。續日本紀に和泉國高渚五院とあり、【位置】行基年譜に清淨土院(高渚)塔(十三層)和泉國大鳥郡葦田里にあり、今□穴鄕とある。□は鹽なるべく、清淨土院の大鳥郡鹽穴鄕の高渚にあつたことは疑ふの餘地はない。清淨土院と高渚寺との關係は如何であつたか、高渚の地に於て兩寺相對立して居つたか、或は又高渚寺は清淨土院と同一のものであつたかは明かではないが、併し同一地點に開創者を同しうする兩寺の對立して居つたとは考へられない。【通稱】或は清淨土院の所在地が高渚であつたので遂に本號を呼ばずして、高渚寺と通稱せらるゝに至つたものか、或は高渚五院とあるにより、清淨土院は高渚寺の一塔頭であつたかとも想はれる。然るに高渚の地名は北莊にも存在してゐるので、玆に疑點を生じ、【高渚に對する異説】泉州志は北莊の高須を以て、同寺の舊蹤なりとし、和泉志は南莊乳守の地なりとし、全堺詳志には和泉志の説を引いて、高須は南莊乳守にあり、北莊に其名のあるは、妓樓を兩所に分けたからのことで、舊名を六間町といひ、故老の知るところであると記して居る。案ずるに北莊の地は攝津國住吉郡に屬し、和泉國大鳥郡に屬する高渚寺の、北莊にあるべき理由はない。然し、之を南莊の高渚とするも、現在の高須であるか否かは、解からない。同寺廢絶の年紀等は明かでないが、光仁天皇寶龜四年十一月に、【領田寄進】田地三町を寄せられたことが續日本紀に見えて居るから、奈良朝末には未だ儼存してゐたのである。