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(一一)神明神社址

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 神明神社址は元祿二年の堺大繪圖によつて考察すると、【所在】大略現今の神明町東一丁曾我長三郞氏邸宅邊に該當してゐる。明治四十一年六月戎之町東一丁鄕社菅原神社へ合祀移轉せられた。【元祿頃の境内】右圖によれば神明町大道東側中央より南北の幅員三間半(新間三間四七寸五分)東西の長さ二十一間(新間二十二間四五寸)の馬場先を通じて東六間、筋(現在字名亦同)と丁字形をなし、馬場先の東端へ東西十間(新間十間五)南北九間(新間九間四五寸)の神域を示してゐる。續いて南隣には東西六間(新間六間三)南北五間半(新間五間五七寸五分)の境域に亙る神宮寺があつた。兩域共に西面し、就中神社は西側馬場先の東端に鳥居を建て、境内中央に南面して社殿があつた。神宮寺は寺名を記すのみで、諸堂其他境内の模樣を記してゐない。【舊址】現狀としては馬場先址のみで、阪堺軌道神明町停留場を二十間ばかり南下した所、大道東側に見える約二十有餘間の東西筋がそれである。馬場先址の東端神明町東一丁二十九番地曾我長三郞氏邸宅の西側は鳥居址に當り、之を中心として測量した同丁二十六番地辰巳楠二郞氏宅表口以南、曾我氏居宅南境迄が神域表側の址となり、此表側南北兩端より東へ十間五の假定線を描いて得た方形線内の一劃が境内址となる。今舊址の大部分は曾我氏私邸及び其經營する所の浪花組事務所となり、一部は辰巳氏及び其裏手個人の住宅地となつてゐるわけである。【神宮寺址】神宮寺址は曾我氏南隣同丁二十八番地松本收平氏住宅以南、同丁十九番地藤繩德太郞氏住宅裏手の二十八番地に至る間を表口の址と見るべきである。【明治年間の境内】當社は明治以後神宮寺を設けず、境内二百坪、本殿、拜殿、社務所、表門等を具備するに至つた。明治三十年代に出來た堺大觀に收むる同社寫眞によるも、東六間筋に當る表門前には太神宮と刻した石燈籠一對を建て、門の左右に土塀を廻し、門内正面の拜殿が微かに見えてゐる。此後境内末社も大黑、服部、稻荷の三社のみとなり、合祀の際共に菅原神社へ移轉された。

第百七圖版 舊神明神社(堺大觀所收)