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(二一)鹽穴寺址

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 【所在】舳松町字南舳松の南方、泉北郡神石村字上石津に跨つて鹽穴寺の遺址がある。(前田長三郞氏談)卽ち履中陵の陪塚經堂塚を中心として東は經堂塚の東方、西は屠牛場、南は北溝の南方、北は舳松の人家で限つた一帶の地で俗に檜木山と稱する附近である。【出土品】檜木山は經堂塚の俗稱で、其北側から大正四年二月に二個の疏瓦を出した。(前田長三郞氏談)瓦は一は天平一は藤原期のもので、直徑前者は四寸五分、後者は五寸一分共に蓮花模樣を置いてゐる。(前田長三郞氏所藏鹽穴寺址出土品)又三線重弧紋の中央に十字押型のある花瓦の破片或は唐草模樣の天平花瓦の破片も上石津區域から出土してゐる。(三宅雄一氏所有鹽穴寺址出土品)此外故鹿嶋圓次郞氏が京都帝國大學へ寄贈した古瓦中にも此所の出土品が交つてゐる。かく多數の出土品があるのみでは無く、今も猶仁德陵環隍から經堂塚の南を經て小栗街道に至る北溝附近には天平以後の布目瓦破片が隨處に散亂してゐる。【舊址】鹽穴寺の正確な位置は記錄上明確でないが、右の出土古瓦及び元祿二年の堺大繪圖に北方南宗寺近くに鹽穴池を記し、且今猶南舳松新池以南を汐穴と稱した點から云へば此地を其遺蹟とすべきである。尤も正法寺遺址中(正法寺遺寺參照)に鹽穴と稱する田地もあるが、其遺物分布區域から推察する時は鹽穴寺址ではなく、正法寺遺址區域に相當すべきものである。(前田長三郞氏談)

第百二十三圖版 鹽穴寺址出土疏瓦(天平)