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(二)明治天皇御遺蹟

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 【遺蹟地】明治天皇が堺へ行幸せられた御遺蹟は熊野小學校駐蹕址、中之町行在所址、堺縣廳行幸址、水族館行幸玉座址等である。
 【熊野小學校駐蹕址】〔熊野小學校駐蹕址〕 明治十年二月十三日堺に行幸せられ、攝河泉三國學童の成績を天覽遊ばされた熊野小學校は現在の熊之町東五丁熊野尋常小學校に當つてゐる。同校の建築其ものは變はつてゐるが、校内に學業天覽遺蹟碑、明治頌德記念碑、玉座址の營造物がある。學業天覽遺蹟碑は同校表門内西側に南面して建ち、表に「明治天皇學業天覽遺蹟」側面に「陸軍中將菱刈隆書」背面に「昭和三年二月十三日臨幸五十年記念會建之」と刻してゐる。明治頌德記念碑及び玉座址は校内北方、東は記念館、西は講堂、南は石玉垣を隔てゝ校庭、北は土塀に接した一劃である。劃内は砂利を敷き、中央に記念碑、東北に蘇鐵を植ゑ、【玉座址】其西北に玉座がある。【明治頌德記念碑】記念碑は六角塔、高さ一丈五、廻り二五寸、南を表とし、碑面に「明治頌德記念碑」背面に「元帥陸軍大將大勳位功二級彰仁親王書〓〓」東側面に行幸の際之を奉迎した和田幾太郞の筆蹟で「明治卅二年五月謹建之」と記してゐる。【由緖の蘇鐵】蘇鐵は行幸の當時は校庭中央にあつたが、後校門の畔に移され、昭和三年現在地に移植した由緖がある。(久代省三氏談)【玉座】玉座は堺頌德會及び行幸五十年記念會の手で其前後に亙つて修補したもので、南面桁行二間、梁行二間半の瓦葺木造である。玉座正面扉の内部には 今上、皇后兩陛下の御眞影奉安庫を安置してゐる。

第百二十九圖版 明治天皇駐蹕地(熊野尋常小學校

 
 
 【中之町行在所址】〔中之町行在所址〕 明治天皇行幸に際し御假泊あらせられた行在所は中之町四十一番地字大道の河盛仁平舊宅、現鈴鹿春幸氏の私宅である。現在の屋敷取は殆ど當時のまゝで僅に阪堺軌道敷設の際門庭を狹め、其後西方に建增をした位の相違である。屋敷は東面し、表門の正面式臺を入れば奧に玄關がある。【御座所址】玄關の西北隅より西へ緣を進めば御座所址となる。十二疊の廣さで北に床袋棚を設け、南に土佐光文筆二十四孝圖の色紙各三枚を捺した金襖四枚を嵌めてゐる。東は緣を附し、其北寄に一間の書緣を設け西は半を壁とし、半を傳雪舟筆山水の色紙各二枚を貼つた金襖二枚を建てゝゐる。此室の東は庭園で西は廊下を隔てゝ御寢所址になつてゐる。庭園は巨石其他大體當時の俤を存してゐるが、當年河盛氏が移植した老松を失ひ、代りに若松を植ゑてゐる。(鈴鹿氏未亡人談)【御寢所址】御寢所址は四疊半で中央に當年御使用になつた寢臺を置き、北側東に袋棚、西に床がある。寢臺は大きさ二疊敷位で、高さ一餘の足を附してゐる。御寢所址の南は二坪足らずの小石を敷いた坪内で、行幸當時海水を湛へて堺近海の魚類を放ち、其遊泳狀態を天覽に供した所である。(鈴鹿氏未亡人談)又御寢所址西側の三疊間及び其南の二疊間は行幸當時近侍の方々の詰所であつた。猶行在所址の間取は右の外に神殿以下數室がある。

第百三十圖版 明治天皇行在所見取圖

 
 
 【堺縣廳行幸址】〔堺縣廳行幸址〕 明治十年堺縣重要物産天覽の爲め臨幸せられた堺縣廳は、神明町東二丁にある本派本願寺堺別院に當る。別院は一時堺縣廳に使用せられ、廢廳と共に再び別院に復したのである。從つて臨幸の廳舍は同別院ではあつたが、何れの殿堂に於て御休息せられたかは不明である。現今同院では最上殿とした御殿の上座を以て玉座址に充てゝゐるが明確ではない。
 【水族館玉座】〔水族館玉座址〕 明治三十六年五月五日堺水族館へ行幸あらせられ、館内御巡覽樓上に於て御休息あらせられた玉座は今も猶同館に存し、平常周圍を鎖して外見出來ないやうになつてゐるが、一定の時期には特に拜觀を許してゐる。【舊址】卽ち同館階上北側中央が御座所で床は拭板張に堺産緞通を布き、周圍は白漆灰塗とし、飾窓は京都市川島甚兵衞の製織に係る日蔭鬘を現はした紋紗織で裝飾してゐる。(餘光錄)