屋敷は時代により多少境域の變遷はあるが、【元祿二年の狀態】元祿二年には當主七郞兵衞の名義となり、東は絹屋町二丁目筋(今の大寺東門筋)西は有樂町筋、南は同筋(今の宿院町南筋)北は住吉神社御旅所宿院境内に接した東西二十九間(新間三十一間二尺五寸)南北三十二間(新間三十四間四尺)であつた。(元祿二年堺大繪圖、元祿八年改以下各年代改堺手鑑)【舊址】右舊址は宿院町東三丁二十四番地より二十五番地に至る境域で、東南端は二十五番地安村直三郞氏住宅、南端は二十四番地三浦喜三郞氏住宅、東北端は二十四番地出見吉三郞氏住宅、西北端は同番地尾崎幾太郞氏所有土藏に當る。尤も舊址北側一帶は軒並よりも北へ三尺八寸道路へ出張つてゐるのは、道路敷設の際屋敷地へ喰ひ込んだ爲めであらう。又舊址中央西寄を南北へ通じた幅員三間五寸の道路は大正五年御大典記念事業として附近に借家を建てた時設けたのである。(青木俊郞氏談)
第百四十八圖版 今井屋敷址見取圖