【所在】鍛冶工住居地域は主として櫻之町附近であつた。【元祿二年の諸屋敷】元祿二年堺大繪圖には大道を挾んで東西には鐵炮鍛冶の榎並屋勘左衞門、同勘七、同治太夫、芝辻理右衞門大道西筋の中臺屋町(俗稱西六間筋)には榎並屋太郞兵衞屋敷、更らに西筋の中濱二丁目(俗稱中濱)には榎並屋久左衞門屋敷を記してゐる。殊に中濱の西筋は金物屋町と明記せる程に鐵工業者が住み、之に因んだ金物屋、鑄形屋、金銅、鐵屋、飯銅の屋號或は氏姓が多い。【舊址】是等鍛冶業者の住した區域は今日櫻之町大道東西兩側及び、同町西一丁、同二丁に跨り鐵炮、庖丁兩鍛冶の井上奧右衞門の子孫たる井上關右衞門氏が北旅籠町西一丁二十九番地に住し、煙草庖丁鍛冶の石割作左衞門の子孫たる石割美禰氏が櫻之町の南隣綾之町西一丁二十番地に先祖傳來の業を營んでゐる外は往時のまゝの鍛冶屋も無く、僅に鐵關係の工場が散在して昔時を偲ぶ便りと爲つてゐる。
古來鍛冶關係で有名なのは橘屋又三郞、文珠四郞、加賀四郞であつた。(堺鑑)德川時代に入つては榎並屋、芝辻氏が鐵砲鍛冶年寄として子孫に及び、出刄庖丁の尾形庖丁も有名であつた。(全堺詳志)延寶六年三月現在の鐵炮屋總數は百五十一人、内公儀方五人、大名方三十人、外に臺屋三十五軒、金物屋十五軒、ざうがん屋三軒があつた。(元祿八年改堺手鑑抄)是等多數の鐵炮屋には井上關右衞門の如く鐵炮、庖丁の兩鍛冶を兼ねる者もゐた。寬保四年には鐵炮鍛冶として芝辻長左衞門外十九名が見えてゐる。(鐵炮鍛治仲ヶ間帳)享和元年十一月改正の日本國家文明集には鐡炮鍛冶屋は櫻町、綾町に住して其數十七軒、外に臺師六軒、金具師五軒と記してゐる。