また、近くの静かな海には、ステラー海牛の群が岩礁に繁茂した海草をのんびりと食べつづけ、外海に面した岩礁や岸辺には、大きな牙をもつセイウチやオットセイ・アザラシなども群をなし、沖には北の外洋から回遊してくるヒゲクジラの仲間たちもみられたに違いない。そして、磯には、鮮新世から生き続けてきたダイシャカニシキ・コシバニシキ・トウカイシラスナガイ・プロトフルビアなどとともにエゾタマガイ・エゾボラ・エゾキンチャクガイ・ホタテガイなどがところせましと生息していた。まさに、動物たちの天国が一〇〇万年前ころの札幌の地に展開されていたのである。
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図-5 ステラー海牛の全身骨格(体長約5m、完新世、ベーリング海峡のもの) |
下野幌期に入ったころから地殻の変動が次第に激しくなり、動物たちの楽園も大きな変化を余儀なくされはじめる。そして、裏の沢層の堆積後、比較的動きの少なかった浅海底にも変化が現われる。それは下野幌層を堆積させた海域の沈降運動である。この沈降域は裏の沢層堆積盆地とほぼ同じ範囲であるが、その中心はやや北西側にずれてしまったようである。
その堆積盆地に、最初に堆積したのが、動物たちの遺骸を含んだ砂礫層である。その後は海況の変化により泥や砂が堆積する内湾となったが、一時的な海退現象で一部が陸地化し低湿地帯が出現した。その時期に生成された泥炭層からはアカエゾマツの遺体やカラマツ属の花粉なども産出している。したがって、当時(八〇~九〇万年前)は、かなり寒冷な気候であったと考えられるのである。この低湿地も再び海におおわれ、海底には厚い細砂とシルトの縞状互層が形成されることになる。
下野幌期の後期、おそらく、六〇~七〇万年前ころの海には、ホタテガイ・エゾイシカゲガイ・オオノガイなど、現在の北海道近海に生息する貝類と同じものが生息していたが、前の時期まで生き延びていたダイシャカニシキなど、第三紀型の貝類は姿を消してしまったのである。この海の堆積物は下野幌層上部の青灰色シルト層である。その後、陸域の上昇や気候の変化にともないこの海域の環境も海水域から汽水域―淡水域へと変化し、泥炭などが堆積することになるのである。
しかし、北部の海域(石狩丘陵付近)は外海の影響が強かったので海水域の状態が継続した。ただ注目すべきことは、この時期に日本海側のこの海域にも暖流が流れ込んできたということである。この原因は遠く対馬海峡の開閉に関連しているのではないだろうか。