斉明四年(六五八)四月、阿倍比羅夫が船師一八〇艘を率いて北征したことは、津軽蝦夷の来貢で津軽地方の様子がわかり、その案内をもって、南下する蝦夷の背面をつく施策があってのことと考えられる。『日本書紀』によると、比羅夫は齶田浦(あきたうら)に軍船を進め、秋田、能代の蝦夷を服属させ、能代、津軽二郡の郡領を定め、津軽の地に進み、十三湖付近と推定されている有間浜に、渡島蝦夷らを招き集めて饗応して帰っている。これが渡島蝦夷の記録に見える最初で、渡島蝦夷の渡島が北海道と考えられるならば、渡島蝦夷は津軽ばかりでなく、出羽あたりまで南下していたのである。このことは遺跡の出土品によっても知られることは前に記した。記録では時代が少し下がるが、養老二年(七一八)に出羽と渡島蝦夷八七人が馬千疋(十疋か)を献上して位禄を授けられた記録があり(続日本紀)、これは当時北海道には馬がいた形跡がないから、出羽に住んでいた渡島蝦夷が飼っていた馬ではなかろうか。
阿倍比羅夫より郡領などの指示をうけた渟代、津軽の蝦夷らはその七月朝貢し、饗応をうけ、位階を授かり、律令国家の傘下に入っている。比羅夫は翌五年三月、再度北征を試み、飽田、渟代二郡の蝦夷二三一人、その虜(とりこ)三一人、津軽郡の蝦夷一一二人、その虜四人、胆振鉏(イブリサエ)蝦夷二〇人を一カ所に集めて饗応し、禄を賜い、さらに肉入籠(シシリコ)に至り、問菟(トピウ)の蝦夷、胆鹿嶋(イカシマ)、菟穂名(ウホナ)の二人の進言で、後方羊蹄(シリベシ)を政所とし、郡領を置いて帰ったという。なおこの文の注に「政所は蓋し蝦夷郡乎」(日本書紀)とある。
虜は従属した蝦夷と解すべきであろう。児玉作左衛門はイブリサエは現在の胆振の国名、シシリコはシ・シリ・コツ=大なる窪地すなわち函館湾にある亀田の旧名シコツ、トピウはアイヌ名で、現在でもこの地名は胆振の敷生川(しきうがわ)の西支流の川筋にあると説明し、シリベシはシリパ(海中に突出した山の岬)と同義で、渡島半島の西海岸に六カ所あり、余市のシリパが一番良港と解しているが、なお不明であるとしている。
『日本書紀』ではさらに「翌六年三月、阿倍臣を遣して、船師二百艘を率いて粛愼国を伐たしむ」とあり、阿倍比羅夫は案内者として陸奥の蝦夷を自らの船に乗せ、大河の畔に至って、渡島蝦夷の要請で、彼等と対峙する粛愼(ミシハセ)と干戈を交え、これを討っている。
はじめ阿倍臣が船を遣わして粛愼を招いたが、来ないので、綵帛(しみぎぬ)、兵䥫(つわものねりがね)等を海畔に積んで無言の交易を求めたところ、粛愼が船師をつらね、羽を木にかけて旗として近づいて来て浅瀬にとまり、二老翁が出て来て積んであった綵帛等を見て単衫(ひとえきぬ)と換え着て、各布一端を提げて船に乗って還った。しばらくして老翁がまた来て、換えた衫を脱ぎ置き、さらに提げた布も置いて船に乗って去ったので、阿倍臣は船をやって喚んだが、応ぜずに粛愼は弊賂弁(ヘロベ)島に帰り、柵に拠って戦となり、能登臣馬身龍(のとのおみまむたつ)が戦死するほどの激戦となったが、遂に粛愼は破れて自分達の妻子を殺すに至ったと記し、なお弊賂弁島には「度島の別なり」と、注が付されている。