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東夷成敗権

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 安倍・清原氏についで、北奥羽の現地支配者として実権を担ったのが、平泉の藤原氏であった。奥六郡の奥の地、糠部、閉伊、久慈、鹿野、比内、そして津軽四郡が蝦夷村と見られていたが、平泉藤原氏のもとでは、この奥の蝦夷村蝦夷地でなくなりつつあった。この期、実際の蝦夷地は津軽の北部と北海道、千島に限られ、鎌倉幕府期には渡島は夷島(エゾカシマ)として認識されるようになるのである。
 鎌倉幕府は平泉藤原氏の征討によって、奥羽の支配権を得ただけではなく、新たに東夷成敗権という夷(エゾ)に対する支配権を得ている。
 鎌倉末期の幕府関係の法律書『沙汰未練書』に「武家ノ沙汰」として、
一 六波羅トハ、洛中警固幷西国成敗御事也
一 鎮西九国成敗事、管領、頭人、奉行、如六波羅在之
一 東夷成敗事、於関東有其沙汰東夷者蝦子事也
以上、如此等、御成敗武家ノ沙汰ト云

とある。すなわち、六波羅探題の洛中警固と西国成敗、鎮西探題の鎮西九国成敗と並んで、関東にあっては東夷=「蝦子(エゾ)」すなわち奥の蝦夷村ならびに夷島の夷に対しても成敗権を持つことが明示されている。
 鎌倉幕府が成立すると東夷の固めとして北条義時蝦夷管領となり、その代官として安藤五郎が津軽に配され、夷島は海賊の流刑地となる。もっともこれより先、王朝国家期奥州は配流地で、平泉藤原氏は流刑者の管轄者であったことは知られている。陸奥を統一した頼朝は、その継承者でもあった。
 『都玉記』の建久二年(一一九一)十一月二十二日の条に、京中の強盗ら一〇人が六条河原で、検非違使の官人より頼朝方の武士に引き渡された。従来は死罪停止のため再犯する者が多かったため、頼朝の奏請によって関東に遣わした上で、夷島に遣わすことになったとあり、『吾妻鏡』にも夷島流刑の記事が見える。「建保四年(一二一六)六月十四日、丙申、去る頃、佐々木左衛門尉広綱の使者、相具して参上するところの東寺の凶賊已下、強盗海賊の類五十余人の事、今日沙汰有りて、奥州に遣はさる可きの由、仰下さる云云。是れ夷嶋(エゾガシマ)に放たんが為に、去る四月廿八日広綱に給はる。広綱一条河原に於て、廷尉の手より之を請取ると云云」とある。ほか『吾妻鏡』になお夷島流刑の記事が二、三見えているが、夷島への流刑の手続きは罪人を鎌倉へ送り、鎌倉から奥州の夷すなわち津軽の安藤氏へ遣わし、それから夷島へ追放するものであった。