荒井金助儀、此程中出函之処、御用済ニ付明日帰村可致処、不快ニ付立渋療治罷在、一両日殊ニ様子不宜趣之処、昨夜中何方え歟脱走。尤当人舎弟並親戚之もの壱人看護として傍ニ付居、夜明ニ相成始て心付、夫より騒立、次て穿鑿申候得共、何分不見当。尤大小懐中物等不残取残し有之、寝巻のまゝニて出候体、全発狂せし事と被察。病者此厳寒中ニ歩行、必近所ニて落命せしなるへし。折悪敷今朝よりは大雪、夕刻迄も死骸不見当。清三郎申聞ル。憫然之極也。出函中城六郎方ニ同居也。
これによれば、金助はムロランに戻る予定であったところ、発病のために療養していたが、夜中に突然宿舎を出て、行方がわからなくなったという。大小の刀、懐中も所持せず、寝巻のままで外出したことより、杉浦勝誠は「発狂」したものとみている。不明となった金助の死体は、十二月二十三日に発見された。『日次記』には、「今夜清三郎より出通荒木(井)金助死骸、今日夕刻裏門上水落口御堀より見出し候趣申儀」とあり、五陵郭の堀から発見されたのであった。
箱館滞在中は、城六郎方に同居していたというのも興味がひかれる。ともに、イシカリ改革後のイシカリ役所を運営した〝両輪〟であった。私的にも仲の良かったことがしのばれる。死体の発見された二十三日に、城六郎は金助の後任として、ムロラン詰となり任地に出立している。二人の縁は、最後まで深かった。
荒井金助の長男好太郎をはじめ遺族は、その後もシノロ村に住み(第九章参照)、金助の三十三回忌にあたる明治三十一年(一八九八)に、篠路村(現北区篠路)の龍雲寺に墓碑が建立された。また明治三十五年には、隣接して紀念碑もたてられた。
写真-6 荒井金助の墓
(北区篠路 龍雲寺)