下総国佐倉城主(千葉県)の老中堀田備中守正睦は、江戸のおひざ元にあって、政治経済文化のあらゆる面で幕政との結びつきが強い。農村の荒廃に勧農掛を設け人口の増加をはかり、朱子学を中心とした儒学の振興により家臣の士風をたかめ、一方、医学や兵制に蘭学を積極的に取り入れ洋学を興隆し、〝西の長崎、東の佐倉〟とまでいわれた。
天保十二年(一八四一)老中になって、幕政の改革を推進するが失敗して退き、安政二年(一八五五)阿部老中の推挙で再びその座についた。開国論者で日米修好通商条約の締結を目論むが勅許を得られず、井伊直弼が大老に就任すると意見を異にし、安政五年老中を罷免される。家督を嫡子正倫に譲ったが、さらに蟄居を命じられ、元治元年(一八六四)功をたたえられぬまま没した。
正睦が家臣に蝦夷地調査を命じるのは、老中首座にあって対外応接の緊迫していた安政三年五月九日、江戸で窪田官兵衛、佐治岱次郎、佐波銀次郎に、同十一日佐倉で黒沼隆三、林弥六にそれぞれ「御内用にて奥州辺え被差遣候旨」(保受録)を達し、従者として金太郎、壮平が加わり、佐倉藩の調査団は七人となった。窪田は儒学者、佐波は蘭学派、黒沼は谷文晁を師とする絵図師で福山藩の構成と似ている。槍術にたけ藩の兵制改革にたずさわっていた近習の佐治が、蝦夷地から縁者に送った書状によると、この調査は当初から二年計画で、しかもエトロフ、カラフトを含め、そこでの越年も辞さぬ意気ごみだったことがわかる。
一行は佐倉城下を五月十七日出発、江戸居住者と合流し、箱館に着いたのは六月二十三日のこと。奉行のはからいでまず新事業を視察し二十八日箱館を出立、太平洋岸を東に進みユウフツから内陸に入って七月七日イシカリに至る。ここから日本海岸を北上ソウヤに達し、カラフトに渡ろうとするが順風を得ず断念し、オホーツク海岸を回り九月十六日箱館にもどった。この間、黒沼と金太郎はソウヤで一行と別れ先に帰国したから、その後の行程は五人となり、九月三十日松前出帆、江戸帰着は十一月九日だった。