ビューア該当ページ

佐賀藩の関心と島義勇

695 ~ 696 / 1039ページ
 佐賀藩は筑前国黒田藩とともに、長崎警備を担当していたために、西洋文化・技術の流入も早かった。天保期の藩政改革をのり切った藩主鍋島直正は、反射炉の建設と砲台の築造、海軍伝習所の設置と海軍の編成など、殖産興業をおこす一方で、軍備力の増強と整備につとめていた。直正は、〝蘭癖大名〟ともよばれるほどであった。
 佐賀藩でも、各藩による分領支配の話をきき伝え、島義勇以下、数名の藩士を蝦夷地に送りこんでいる。佐賀藩蝦夷地に関心をもったのは、この時が初めてではなく、すでに古賀精里のころにさかのぼる。精里は寛政の三博士の一人で、幕府の儒官となった。当時、ロシアの南下が伝えられ、北方警備の急務がとかれ、精里もその主張者であった。精里の子穀堂は、藩校弘道館の教官で、東北地方を巡歴したこともあり、また弟侗庵は『俄羅斯国志』をあらわし、北方の警備と開発は、〝藩論〟として形成されていた。佐賀藩は以上のように、常に海外に目が向いていた。このような中で、藩士の蝦夷地への派遣となるのである。
 島義勇(通称団右衛門、国華・楽斎・桜蔭などと号す)は、文政五年(一八二二)に佐賀城下精小路(しらげこうじ)に生まれた。島家は禄三〇〇石で、代々「文の島一族」とよばれ、経学者が多かった。義勇も幼少より弘道館に学び、弘化元年(一八四四)に卒業した。その後、三年間にわたり諸国を遊学した。その中で、水戸藩の勤王論者藤田東湖にあい、蝦夷地問題についてつよい関心をもつようになった。

写真-3 島義勇
(佐賀県郷土教育資料集より)


写真-4 島義勇の生まれ育った精小路(佐賀市)の現在の風景