佐賀藩から同じく蝦夷地に派遣された藩士には、犬塚与七郎がいた。義勇と与七郎は、松浦武四郎の協力を多く得ていた。『簡約松浦武四郎自伝』によると、両人は安政四年(一八五七)三月十二日(義勇の(二)では十三日)に武四郎に会い、四月二十五日には、「島義勇より犬塚を西地迄同道致し呉候様頼に付承諾す」とあり、与七郎の案内を依頼されている。与七郎は、義勇と共に派遣され、江戸から同道で箱館に来ていた。先の武四郎との西蝦夷地への同道に関し、『奥羽幷箱館松前日記』には、「犬塚彼是の図合(はからい)にて、追々帰郷之筈に付、今日(二十九日)松浦多気士楼、石狩河に被参候に同伴、此之近所之蝦夷迄小遊之含にて発程」と記されている。
これによると、与七郎は帰郷前の「小遊」で、武四郎と同道しており、調査が目的ではなかった。与七郎はスッツまで至り、五月十日前後に箱館に戻り、あわただしく帰国している。彼の帰国につき、義勇は「彼是の図合」のみとしか記しておらず、さらに追筆にて、「犬塚帰国之事、内密申談之義有りて、委敷記さず、人之みんを恐るる故也」と、「内密」な理由をあげている。与七郎の帰国は、武四郎には「出府の由」(燼心餘赤)、堀利熙などには「宿元ニ病人抔(など)有之由」と、虚偽の理由を述べている。与七郎の帰国の真相は、佐賀藩の蝦夷地選定個所につき、いち早く幕府への上申を得るためであった。