十月十七日御国元より郡目附高柳忠吉郎、且満岡作助・武富熊吉箱館着、御含の末御国産の事を鎮台え申聞置候処、九日朝堀鎮台より懇なる沙汰之末、三段仕組之箱菓子抔持参して、調役村上愛助に面悟す、段々産物一件之話に移り候処、御国之陶器は勿論、村上被申候は米堅(メリケン)船より望候品ノ中、生脳密・煙草其外御運に成り候ば、是より何程も沢山相運び可申由被申聞……
これによると、十月十七日に郡目付以下が訪れ、産物のことを箱館奉行(鎮台)堀利熙、調役村上愛助にはかったところ、陶器をはじめとしアメリカ船入用の生脳(樟脳)、密(蜜柑か)、タバコなどの廻送・販売に賛意を得ている。すでに会津藩でも同様な申請をなし許可を得ていたので、佐賀藩のこの計画にも支障はなかった。以上の会津・佐賀藩のほかにも、水戸・大野藩なども商品流通による利益をねらった動向をみせており、蝦夷地の分領支配・開拓と密接な問題となっていた。そのために、漁業、林産、鉱山などの資源調査も必要となっていたのであり、佐賀藩の島義勇の調査も、これら諸藩の調査目的の一典型といえるであろう。