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武四郎の新道検分

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 新道開削にともない、松浦武四郎は安政五年六月に、サッポロ越新道を検分し、新道沿いの地名・地理・様子を記述した「新道日誌」(『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』所収、以下『戊午日誌』と略記)をあらわしている。武四郎がこのルートを通行するのは、弘化三年(一八四六)以来二度目であった。
 武四郎はサッポロ越新道に関し、安政三年以降、各地で開削された新道は、「元より有来りし道を再興等なして、何れも全くの新道たる者にあらず」と述べ、サッポロ越新道は、「此蝦夷の地の中央を志(こころざ)し越るが故に、当節開地の第一業とす。依て新道は此新道に限るが故に、此名を冠(かんむ)らしむるもの也」と、『新道日誌』の名称の根拠を説明している。武四郎によると、サッポロ越新道のみが唯一の新道で、「(蝦夷地)開地の第一業」であった。

図-1 サッポロ越新道と諸河川(新道日誌より)