「札幌開拓記」の「温泉新道」は、おそらく早山清太郎の談話に依拠しているであろう。実は清太郎自身が、「温泉新道」の開削に関し、直接談話している資料があるのである。それは河野常吉が、明治三十年代のなかば頃に編纂した「札幌郡調」(北大図)に収録されている。ここでは、「温泉新道」と温泉開発の項目に関し、まとめて紹介しておこう。
清太郎は、三人の知人が魚釣りで豊平川の上流にいたり、温泉で二昼夜滞在したことを聞き、安政五年五月に自身で温泉を見届けにいく。温泉にはすでに一棟の狩猟用とみられる建物があった。これより清太郎は、瀬川(荒屋)孫兵衛とはかり、米・味噌・人夫の手配をなし、土方・仙夫三人を連れ、四十日で道路を開く。清太郎は翌六年五月に、新道開削のことを荒井金助に届け、温泉に小屋一棟をたて、六月から九月まで湯番として老人二人をおく。その後は、文久元年(一八六一)七月に共同開発者の瀬川孫兵衛が死亡し、温泉の維持を清太郎に委任された。それで当時、「小樽ハルウス山上ニワカシ湯ヲ営業」していた修行者の定山に、貸し渡すことにした。
以上が清太郎の語っている主な内容である。河野常吉の聞きとりの時、清太郎は八十数歳(清太郎は明治四十年に九十一歳で死亡)になっており、記憶違いもあるであろうし、またこの談話の主旨は、定山には「一代限り貸渡し」の「約定」をむすび、温泉のもともとの所有権は清太郎のもとにあるという主張を含んでいる。そのため、すべてを額面どおりにうけとれない点もあり注意を要する。しかし、安政五年五月以降に、清太郎が温泉に通ずる刈り分け道をつくり、翌六年五月以降に温泉の湯治小屋をたてたことは、認めてもよいかと思われる。