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定山の経歴

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 定山渓の地名の由来となった定山は、備前国周匝村(すさそん)(現岡山県吉井町)の繁昌院の出身であった。繁昌院は真言宗の寺院で、池田藩の祈願所である。定山は若くして修行の旅に出、嘉永六年(一八五三)頃に蝦夷地に渡ってきたようである。そして、翌安政元年(一八五四)頃に、ヲヲタ(太田、現大成町)にある太田山権現の別当となる。この頃、宗健と称し、また太田法印と呼ばれたという。
 松浦武四郎は、安政三年四月にこの太田山権現に立ち寄り、定山に会っている。武四郎は定山のことを、次のように記している(燼心餘赤)。
此拝殿に参り見候処僧壱人住居仕候。何故此所に被居候哉と相尋候に、此者備前岡山の産にて真言宗松前城下阿吽寺(あうんじ)、未須村観音寺に住職仕候。当時此処へ参り三年に相成候。拝殿一宇造り度き心願の由申……

 定山は二、三年前にこの太田山に籠(こも)り、拝殿造立の「心願」をもっていたのであった。武四郎は定山に、アイトマリ(相泊、現熊石町)への新道開削をすすめる。定山は翌四年に開削にしたがい、五年には箱館奉行から褒賞をうけている。