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定山の温泉開発

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 その後定山は、小林広『定山と定山渓』(昭和十四年刊)、合田一道『定山坊の生涯』(同六十一年刊)などによれば、文久元年(一八六一)頃にオタルナイ場所に移り、ハリウス(張碓)を中心に宗教活動を続けるかたわら、ここの湯の沢鉱泉の経営に着手したようである。このことは先の早山清太郎の談話、「小樽ハルウス山上ニワカシ湯ヲ営業トナシ」に一致する。
 定山は前述したように、文久元年七月以降に早山清太郎より温泉を譲りうける。清太郎と共同経営した瀬川伊兵衛(荒屋孫兵衛)は、ハリウスの隣のカムイコタンに漁場を有しており、定山自身もすでに温泉のことを聞き及んでいたはずである。
 定山が文久元年七月以降、すぐに温泉開発と経営にむかったかどうかは不明である。定山は温泉利用者のことを勘案すると、当時イシカリより距離的に近いハリウスの方が期待をもてるので、温泉とハリウスをむすぶ新道の開削に着手したようである。これにはハリウス在住の葛山勇助の援助があった。そして慶応二年(一八六六)以降、ここに住居して温泉経営にあたることになった。
 その後明治元年(一八六八)に、箱館府石狩詰の井上弥吉は、定山に米二俵を与え、定山の温泉経営を援助したが、本格的に温泉の利用者があらわれるのは、本願寺街道が開通した明治四年(一八七一)以降であった。五年にいたりここに休泊所がおかれ、定山は湯守に任じられる。定山渓の地名の由来は、明治四年に開拓長官東久世通禧(みちとみ)が、本願寺街道を検分した折に、定山の労に報いて命名したという。