多人数が一度に通行する折は、イシカリの市中から人足がかり出されるようになる。たとえば安政五年(一八五八)八月に、箱館奉行村垣範正が廻浦の途次、アツタよりイシカリ入りした折、イシカリよりオタルナイ川迄の道普請と共に、主に出稼人・永住人二〇人に対し、総計一二七人の人足供与を申付けている(五十嵐勝右衛門文書)。このように出稼人・永住人が人足を出すということは、当時各藩でなされていた助郷(すけごう)などの人足役が、イシカリにおいても実施されたことを意味している。安政五年八月二十六日に、イシカリで出稼小商内渡世を願い出た箱館大黒町の与右衛門、江差在(ざい)の万吉は、「人足馬継立候節ハ差出申候」と届書を差し出している。これはイシカリ改革以後、イシカリに本陣・浜役の町役の自治組織ができるにしたがい、人足役も負担するようになったことを示している。一方では、「町並御人足繁敷相当り」、通行人足の免除を願い出ている例もある。