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作成原理の変更

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 安政三年の各場所ごとから、慶応元年に端的にあらわれている番所ごとへの変化は、番所アイヌの「撫育」を職掌としているためでもあるが、もうひとつ重要な人別帳の作成原理の変更を示している。たとえば、「上川住居」の家数・人数を集計した断簡に、男ノンクがみられる。ノンクは安政三年の人別帳に、トクヒタ場所に記載されている。しかし、『丁巳日誌』によると、上川メム(現旭川市)の出身で、当時、イシカリの浜へ漁場労働のために下げられていた。また、写真4の右側部分は、母アチヤサヲツ(七五歳)は、安政三年人別帳トクヒタ場所に、イナヲアニの母アチヤシヤチマチとみえる。それゆえ、この部分は次のように復元できる。
イナヲアニ
当丑四十五才
ヲトルマツ
同 三十才
アチヤサヲツ
同 七十五才
〆三人之内 [男 壱人 女 弐人]

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写真-4 イナヲアニ、ノンクの人別書上げ

 イナヲアニはやはり『丁巳日誌』によると、上川のウヘンベツブト(現当麻町宇園別)に家があり、当時、ノンク同様に浜へ下げられていた。以上、ノンク・イナヲアニの両名は上川出身であり、それゆえに慶応元年の人別帳では、「上川居住」に記載されたのであった。
 このようにみると、慶応元年の人別帳は、各人別を居住地ないし出身地にもとづき、それらの地域を管轄する番所ごとにまとめたものであったことがわかる。これにより人別帳としてより実態に近づけ、武四郎にするどく批判された「不人別帳」からの改正をはかったものといえる。