文久二年(一八六二)五月、老中は箱館奉行に対し「覚」として在住制の改正について意見を求めた。この覚では、まず現状を「従来荒廃之土地柄、迚も此儘ニテハ急速人口充足、十分御開拓筋可相届見据も無之哉ニ付」(蝦夷地御開拓諸書付諸伺書類 新撰北海道史第五巻)として、現行制での目的達成は困難との見解を示している。しかし改正案の骨子は、一、今後在住にはそれぞれの高に応じて在住中給地を支給し、帰府の節知行所蔵米は前のとおりとする。また給地は荒廃の土地のため、各々の持高の五割増とする。部屋住、次三男、陪臣、浪人に対しても、これまでの手当に替えて相応の土地を割渡す。二、土地を割渡した年から五年間ほどは、これまでの半額の手当を支給する、というものであった。すなわち在住の主力とされている旗本、御家人については前述のように在住扶持・手当金のほか、元身分の高を支給され、その上に自力開墾の見込みのある土地を付与されていたのが、元身分の高を蝦夷地の土地に替えて支給され、かつすべての在住が手当を半減、しかもほぼ五年限りとなる。当然在住の収入は大幅減となって、制度としては大きく後退したものといわざるを得ない。
なぜ、老中がこのような案を立てたのかは不明であるが、一つはこの頃に幕府が行った諸改革の一環という面、特に財政改革との関連で行われたこと、さらに安政六年の諸藩分領により、在住の蝦夷地開拓に占める地位が相対的に低下したという老中側の認識などが原因ではないかと思われる。