これについて、同年七月に箱館奉行水野下総守、村垣淡路守、槽屋筑後守三人連署で意見を上申した。この中で、まず僻遠の地の実状を述べたのち、これまでの在住は、従来宛行のほか在住手当を支給してすら農民雇入その他の費用に差し支えているのに、この案では開墾どころか家族の生活すらできなくなり、すでに入地した在住のものも御免を願い、以後志願のものもなくなるだろうとして強く反対した。
この老中案が実施されたか否かの史料は見出していない。明治五年ころの聞取りに、文久二年にハッサム、シノロ、コトニ等の在住六人が帰府または箱館に出たという記述があって(岩村判官 札幌開拓記)、あるいはと思わせるが、これはかなりに不正確であるし、また大友亀太郎の例をとると、在住手当金は任用時の安政五年、明治元年とも同額の一〇両である。それ以上に、この老中案が実施されれば、箱館奉行の述べるように、在住制は全面的に崩壊せざるを得なくなるから、この案は実施されなかったと思われる。しかし同時に在住制は立案時のような期待、たとえば諸藩の警備を不要にするほどのもの、という位置づけはすでに失われてしまっていたといえよう。