イシカリ御手作場への農民移住は、大友が御手作場の造成を進行させつつあった慶応二年の七月より開始している。これら農民の移住の状況を、その戸数・人別・入地年月を記した年度別の『石狩御手作場家数人別取調書上帳』(大友文書)によって見てみたい。
まず慶応二年七月に越後国蒲原郡平形村出身の長蔵の家族四人、同国同郡井栗村出身の宅四郎の家族五人、同国同郡大宗村出身の弥平次の家族五人(九月に男子出生し六人となる)、南部佐井出身の豊吉(慶応三年より万次郎と改名)の家族二人の四戸が入植し、引き続き八月に南部五戸出身の松太郎の家族四人、南部八戸出身の吉之助の家族六人、同じく南部八戸出身の寅吉の家族二人、それに庄内井鈴村出身の勘右衛門の家族三人(ただしこのうち女房キミは未着とあり、慶応四年末までにも入地をみないので除く)の四戸、さらに十一月には津軽出身の寅助の家族四人が入植した。
ここに慶応二年末における移住農民は九戸、三五人(うち男二四・女一一)であった。