ここで問題となるのは、前掲大友文書の山岡出府に続いて「同人取開候場所幷御手作場とも差上候節」(傍点引用者)とある点である。すなわち山岡は、ハッサム村において自分の「取開候場所」と共に、御手作場も管理していた。御手作場とは幕府の直営のもので、おそらくこの場合は退去した在住の地をイシカリ役所が引継ぎ、若干の農民扶助を行っていた場所と理解するのが妥当であろう。とすれば、山岡が退去に際して開墾地を差し出すことにより、これまでのハッサム在住開墾地はすべて御手作場となり、ここにイシカリ役所によって農民が入地して扶助を得、さらに箱館裁判所(府)に引継がれた、と考えれば、慶応三年以降多くの農民が入地した理由もうなずけよう。すなわち慶応三年以降、ハッサム村は在住村から御手作場(ただし大友を担当者として開始された大規模のものではない)に変わったとみるべきであろう。