なお、同年における二人の人別等はつぎのとおりである。(石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳 慶応四年六月 大友文書)。これによれば、仁三郎は米の扶助はすでに受けなくなっていたようである。
「(朱書)なし」 | 字コトニ川 | |||
一 | 家内三人 | 荷三郎 | ||
[慶応三丁卯年より御手 作場人数ニ組込ニ相成 候家内一同御手当なし] | 本人 | 当辰四十六歳 | ||
同 | 妻 | きよ | ||
同 三十六歳 | ||||
同 | 悴 | 竹松 | ||
同 六歳 | ||||
一 | 家内四人 「(朱書)弐升四合 六合」 | 与惣次 | ||
慶応四戊辰六月入 | 本人 | 当辰四十五歳 | ||
同 | 妻 | かミ | ||
同 三十三歳 | ||||
同 | 悴 | 与惣吉 | ||
同 五歳 | ||||
同 | 弟 | 正助 | ||
四十歳 |
このほか、開拓使開墾掛による明治四年の人別調には、「在来」と記された家が、右のほか四戸ある。「在来」とは、おそらく開拓使の移住行政開始以前に入居したものと考えられる。この四戸の明治四年における戸主名および家族数( )内は、今井三次郎(一人)、森田亀吉(三人)、中山冨蔵(四人)、木村勘右衛門(三人)となっている。