ビューア該当ページ

荒井村の設置

970 ~ 971 / 1039ページ
 のちにシノロ村と称せられる荒井村中嶋村についても、当時の史料はきわめて少なく、これまでも『荒井金助事蹟材料』(以下『事蹟材料』と略記)等、後世の編纂物あるいは聞取りによって記述されてきた。本書でもその状況に大きな変化はないが、その範囲でできるだけ問題点を探り出し、事実関係を明らかにしたい。なお、『事蹟材料』では、荒井村ははじめ新井村と称されたとされているが、記述の都合上、ここでは荒井村に統一した。
 まず荒井村の地所選定・農民招募の概要については、『事蹟材料』に次のように記されている。
 (荒井)金助又(早山)清太郎に命じて、運輸利便の耕地を探索せしむ。……清太郎命を奉じ、農業の余暇を以て処々の地勢を察し、篠路村の地味肥沃にして水運の利あるを発見し、以て金助に報ぜり。時に安政六未年十月なり。清太郎此月より樹木を伐採し、翌年(即ち万延元年)六月耕地一万余坪を墾成したり。金助此報を得て自費農夫を募り、篠路に移住せしめ、新井村と名く(のち荒井村といふ)。

 また、岩村判官『札幌開拓記』(おそらく明治五年頃、岩村が早山から聞き取ったものと思われる。のち松本十郎に渡り、『空語集』九二に収録された)によれば、「安政六己未年、清太郎儀琴似ハ山近く、霜早降農作ニ不宜を以篠路ニ移住、畑地一反余開墾す」とあって、若干年月が異なっているようにも解釈できる。
 ここでも土地選定の主たる理由は、ハッサム村と同様土地の肥沃さと、主としてイシカリとの間の運輸の利便さであって、この場合はフシコサッポロ川がそれに相当した。当時の地図類は見出していないが、ハッサム村と同じく、明治十四年(一八八一)の開拓使地理係『石狩国札幌郡之図』によると図3のごとくであり、一応の概況が察せられよう。

図-3 明治14年の篠路村
開拓使地理係『石狩国札幌郡之図』(部分)

 いずれにせよ、荒井の、自分開墾地墾成の意図と、清太郎のより農耕に適した地の探索とが合致して、この地が選定され、荒井による農民招募、村づくりが開始されることになるのである。