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村役人

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 荒井金助村役人を定めた際の考え方はよく知られている。すなわち『逸伝』では「曾テ名主以下ニ各々姓氏ヲ付シ、謂テ曰ク。当道ハ沍寒ノ地畑作ニ適シ、水田是ニ次ク。為ニ四分田畑六分ノ意ニ外ナラスト。拠テ各農民ニ渋田ノ姓ヲ冒スコト是カ始タリ」とある。ただし「各農民」は『事蹟材料』の「勧農の事」中に記されているように、名主のことであろう。また後述のように明治三年四月に、「名主畑六」が文書で確認されるから、これは事実としてよい。
 村役人名等については、前述のように資料により多少の相違がある。ここでは『事蹟材料』中の「荒井金助殿履歴」によるとつぎのとおりである。
[篠路開墾荒井手農夫名主役]渋田 畑六
仝 順番仝  乙吉
仝 仝仝  弥平
   七之丞
大島 文蔵
   政吉
武藤 金蔵
松下 喜平
農夫取締   喜三郎
佐(ママ)山 清太郎

 最初の畑六は、忠司(次)であろう。またこの書き方では、前三人が交替で名主をつとめたものと思われる。しかし同史料の「金助開墾の意は屯田にある事」中では「高梨忠次郎(ママ)を名主とし、弥平、乙吉、七之丞、喜三郎、常助、松四郎、辰之丞、治助、政吉を百姓代とし」とあるし、『逸伝』もほぼ同様であるが、名主が一人で継続し、百姓代がこれだけ多人数で交替するのも不自然である。ここでは一応名主は三人の交替と考えておきたい。