以上がオタルナイ騒動の概要である。本書としては、シノロ村の浪人下国・荒谷がいかなる事情によって参加したのか、すなわちシノロ村に参加をうながす状況が醸成されていたのか、という点が問題である。この手がかりとして『事蹟材料』に次の記述がある。すなわちイシカリ役所調役荒井金助は「剱客下國雪之進、鎗(ママ)術士荒谷兵三郎をして農村(荒井村―シノロ村)に撃剣を教え」させていたが、「金助函館に転任せし後も、雪之丞兵三郎ハ永嶋(玄造)の引立にて武勇の名手なりしに、血気にはやり永嶋の諫止を用ひずして小樽騒動に組みし」たという。
永嶋玄造は在住でオタルナイ川口付近に居住し、イシカリ役所の伐木改役を兼務していたが、武術の総括者的役割も持っていたようである。これからみると、下国・荒谷は本拠をシノロ村におきつつ、イシカリ(オタルナイ川も含まれるかもしれない)等で武術の教授にあたっていたのではないかという推定が生じる。まったく帰農したのならともかく、戸数十数戸の荒井村、二十数戸のシノロ村に、武術指南二人が、それを主目的として常住していると考える方がむしろ無理であろう。とすると、海岸漁業地帯でも武術の教授であった両名が、騒動の主要人物の勧誘をうけて参加した、と考えるのが妥当と思われる。すなわち、両名の騒動への参加はとくにシノロ村のおかれた状況を反映したものではなかった、と考えるべきであろう。