その第一項で、岡本は北蝦夷地一円は、日本固有の地であり、そこに住むアイヌの人々も「祖宗ノ遺民」とし、内地が危険であるからといいながら「南島」(北海道)の警備も不充分にすごせば「其地」(カラフト)の保持はむずかしいとした上で次のように記した。
箱館一港ニ依リテ北地ヲ維持セントスルハ、実ニ覚束ナキコトナルヘシ。愚按ニ石狩辺ハ天然都府ノ地形ニテ、近来永住ノ輩モ頗ル多ク、既ニ都府トナルヘキ勢アレハ何トソ在上ノ方々ヨリ率先シテ彼地ニ移住シタマヒ、江府京坂ハ言フマテモナク闔国(国内のこらず)繁冗ノ頑民ヲ移シ、衣食器用ニ内地ノ運輸ヲ仰カサル様指揮シタマハンニハ、一時ニ庶民雲聚シ、百万石ノ収実ハ目下ニ得ラルヘシ。天下ノ人心モ亦大ニ興起シ、貨財ノ融通ナトモ便ナルヘケレハ、此辺ハ謂ハユル其命維新トイヘル上国トナリ、殊ニ小樽内ハ良港ナレハ、大阪兵庫ナドヽ同シク殷冨ノ埠頭トナルヘシ、石狩川ハ甚タ遠ク流レ、水源ニハ夥シク大木ヲ生シ、大艦ヲ製造スルナト自由ナレハ、漸ク内地ノ国弊ヲ救ヒ奉ツルモ意ノ如クナルヘク、漸ク外人ノ胆ヲ破ルニ足リテ、北島経界ノ談判ナトモ、何様ニモ行届クヘシ。是レハ蝦夷島第一ノ急務ト存シ奉ツルナリ。
(北大図)
ここでは、防備は箱館によるだけでは無理とし、さらに「石狩辺」を中心とした開拓を唱導している。この石狩辺は、「既ニ都府トナルヘキ勢」があるとされているから、この時期すでに市街を形成しているイシカリである。すなわちイシカリを中心とし、石狩平野に農村を創出するという、拓殖を基本においた論といえる。また「在上ノ方々」すなわち奉行の移住を唱導しているのは、カラフトの情勢に対して政治的に機敏に対応するためではなく、むしろ心掛けとしての強調と思われる。